やっぱり『やもり通信』

海外生活一区切り。これからは日本の生活メインの内容になりそうだけど、タイトルはやっぱり『やもり通信』・・・で、いいかなっと。

私が日本語教師になったわけ

 と、いきなりこのタイトルには「??」の方も多いかと。
第一、私は今「日本語教師」じゃないし

 ただ、今、世界中で(?)一気に広がっている(??)
みんなでブログを書こう! 第1回(私が日本語教師になったわけ) という企画http://amba.to/x3Kj4vに、ちょっと参加してみたくてこっそり(?)書いてみることにしました。

 
 きっかけは「若気の至り」。その道を進み続けようと思ったのは「若さ故の思い込み」

 北海道の某大学で平凡な大学生活を送っていた自分が、なぜ3年目の履修登録時に課外授業となっていた“日本語教授法”を受講しようと思ったのか・・・。今考えても不思議なのですが、それがまあ「ひとつのご縁だった」というか今の私につながるスタート地点だった、ということなのでしょう。
 
 卒業単位にも全く関係がないのに。
 正規の講義が終わった後の5講目に半期で1万円ほどの受講料を払わねば・・だったのに。
 当時、サークル2つを掛け持ちしていたのに。
 なぜか火曜日の5講目だけはこの“日本語教授法”に顔を出す生活となったのでした。「日本語教師」などという職業について特に意識しているわけでもなかったのに。
 それでもなんとなく受け始めたその講義は、もう目からウロコの連続でした。とにかく面白かった。
 「山に登る」と「山を登る」の違いは?
 探しものをしている時・・・「今」見つかったという状況なのに「あった!」と過去形を使うのはなぜ??
 
 こんなことが面白くて面白くて、自分は日々賢くなっているような錯覚に陥りました。


 なのに、一度だけ、この“日本語教授法”の講義を休んだ日がありました。

 友人に「青年海外協力隊の説明会を聞きに行こう」と誘われたのです。誘われるままについて行き、そして説明会でもらった『募集要項』なるものに「日本語教師」というものを見つけ・・・・

 とっとと申し込んで受験してしまいました。

 いえ、正確には、やはりそれなりに先生(当時、北大から“日本語教授法”を教えに来てくださっていたS先生)にも相談し・・・、でももちろん「いや、それは無理でしょう。」というお答えでしたが、「自分の力を試すために受けるだけ受けてみるのは悪くないのでは。」というようなことを言ってくださったと記憶しています。

 両親にも話してみましたが、まさか何の実務もない現役大学生が合格するようなものではない、と思っていたようで(実際、そうです・・・一般的に。)「ふ〜〜ん。」という感じの反応。父の「ふん・・・オモシロイ。」とにやりとした顔を今でも覚えています。

 申込み願書のようなものには『日本語教授法45時間受講』などと精一杯サバを読んで書きましたが、多分実際には週1回の大学の課外授業ですから・・・受験の段階でもせいぜい20数時間だったかと。


 そんな私でしたから、当然1次の筆記試験の出来は散々で、とにかく習ったことは完全に理解して臨んだものの全体としては半分もできていなかった・・・・はずです。


 なのに、なのに、なぜ合格!??


 S先生も、思わず「え?どうして?」と・・・。


 その後、2次の面接試験までの間、先生は私のためにお時間を割いてくださり、1次試験のすべての問題について解説してくださいました。
そして「前回出来なかったところは全部ひと通り勉強した、という意気込みを見せなさい。そしてあとは思いっきり、自分の気持ちを(面接で)答えなさい。」
 そして、さらに
「普通、あなたのような実務経験もなくて若すぎる人は、なかなか行けるものではないはず。でも、もし万が一このまま合格するようなことがあったら、その時は何があっても行った方がいいと思うわよ。それは、きっと何かが(誰かが?)行きなさい、と言っている、ということだと思うから。」


 その数カ月後、まさかの「合格通知」を手にし、大学を休学し、1989年7月マレイシアへ。



教育実習も受けたことがなく
外国人に自己紹介の方法も教えたことのない若造が
いきなり現場へ。 

 同僚の先輩隊員に思いっきり助けられ、というか一から教えられながらの2年間。
生徒は可愛く、生活にも恵まれていましたが、最も中心となる「日本語を教える」ということについてはやはりどう考えても力不足で、2年の任期を終えて帰る頃には『いくら絞っても一滴の水も出てこない』ボロ雑巾のような心境になっていました。


 ああ、いい経験をさせていただきました。
 みなさん、ありがとう。
 
 そんな気持ちで帰国した私は大学に復学し、教員採用試験を受験。
 この時、「2年間の日本語教師生活」は自分の中では
「将来、学校教員として働くことになったらきっと生きてくるであろう貴重な経験」
 という位置づけでしかありませんでした。

 人よりは少し遠回りしたけれど、人よりも少し大きな経験をした人材・・・として採用試験に臨んだものの、


 あらら? 不合格??

 
 臨時採用の申し込みをすると同時に、
「敗者復活」のような気持ちからつい出してしまった社団法人日本語教育学会の【日本語教育研修会】の応募書類。 この研修の受講生となるための試験を受けに、上京。 そして合格。


 小さい頃から漠然と思い描いていた将来の自分の姿「学校の先生」。
そのためのよい修行となるかも、と思って参加した協力隊では「日本語教師」という仕事に限界を感じてしまったのに。
 教員採用試験は不合格で、
 日本語教育学会のほうが合格??

 
 つまり、やっぱりそっちの道(日本語教育)に進め、ということ??

 私は、何か目に見えない強い力によって、日本語教育という道に引っ張られている・・・??

 これを「若さ故の思い込み」と言わずしてなんと言いましょう。


 そのまま私は大学を卒業した年(と言ってももう26歳になろうとしていましたが)に、上京し、協力隊事務局などでアルバイトをさせていただきながら日本語教育学会の研修を2年間受け、今度こそ本当の「日本語教師」となるべく邁進していったのでした。


 それなりに悩んだことも、もがいたこともありましたが・・・
それでも、若気の至り思い込みで迷い込んできたような日本語教育の世界で、10年弱楽しませていただきました。


 今は、一応「子育て中」&「公用旅券での派遣されている専門家の配偶者」という立場ゆえ、休職中。


 ん? 無意識に「退職」ではなく「休職」と書いてしまったってことは・・・
 またそのうち「求職中」ってことになる・・・んだろうか?


 そんなことを考えつつ・・・。