これを書こうとしている今日は2月12日。
あ、もう0時を回っているので13日になってしまいました。
あっという間に、というかあっけなく、というか・・・
エジプトの皆さんにとっては長い時間といろいろな犠牲を払って勝ち取った「勝利」なのでしょうが、前日の「世紀の大誤報」(←命名「むらログ」管理人)の後だっただけに、今朝の新聞の見出し『ムバラク大統領辞任へ』を見ても
「え?これっていつの話?」「辞任って・・・今度は本当に??」とボケボケの私でした。
でも今度こそ、本当にエジプトの歴史が変わろうとしています。
ムバラク大統領退陣を受けて情勢は鎮静化に向かい、私たちの帰国(エジプトへの)も意外と早くなるのか、それとも、これからまた別の新たな混乱(模索)の始まりとなるため、なお先が見えない状態が続くのか・・・シロウトの私には何も解りませんが、とりあえず今は日本での時間を大切に使いながら過ごしていこうと思っています。
ということで、自分の記録のためにも、書き始めた今回の<退避帰国日記>は少なくともウィーン経由で成田に降り立った 2月4日までは綴っておこうと思います。
<退避帰国日記:1月28日>
〜最初の「金曜デモ」は「ルクソール・マラソン」の日〜
その日は本当に4時起きでした。そしてまだ暗いうちから移動用のバスに乗り、スタート地点である「ハトシェプスト女王葬祭殿」に向かいました。
私たちが参加するのは『キッズ・ラン』。娘のみどり(6歳)がこの5kmのコースにエントリー。私はその伴走者。息子の草太(4歳)はおまけ(とりあえず一緒に走らせる or 歩かせる)
スタート地点に着いたころには、これから何かが始まるかもしれないカイロのことなどは私の頭の片隅に・・・・もなかったかも、という“お祭りモード”の私。
ルクソールの朝の風物詩、空から遺跡を眺める“気球ツアー”の、カラフルで大きな気球に目と心を奪われながら、これからの短くも楽しいであろう5kmの道のりのことで私の頭はいっぱいでした。
もちろん6歳の娘にとっては初めての「マラソン」。カイロに残っているパパにはビデオや写真でしかその雄姿を見せてあげられないけれど・・・
でも、とりあえず『実況報告』で一緒にルクソールの風を感じてもらえれば・・・
そう思って走りながら取り出したケイタイ。
この時間(朝7時)は、もちろん起きている時間。
『Tattaima start shimashita!』(たった今、スタートしました)
しばらく待っても返事はなく、それでも気にせず、
『Futaritomo gambatte hashitte orimasu!!』(二人とも頑張って走っております)
やっぱり返事はナシ。
このあたりで「あ、きっと今日の動きをTwitterで追うのに忙しいんだ・・・」と気付く。
でも、それにしたって一言くらい『がんばって!』とか・・・
あってもよさそうなのに。
いや、普通ならそういう類の返事は欠かさないのに。
ちょっと変だな、と思いつつも、その後2回ほど『実況報告メッセージ』を送るも返事がなく、
ちょっと不機嫌になりかける自分。
今更書くまでもありませんが、この時すでに当局による“SMSストップ作戦”が始まっていたわけで、
私はその事実を、子供どもたちと5kmを走り終わって移動のバスの中で休憩しているときに夫からかかってきた電話で初めて知りました。
夫の電話の声はとても落ち着いていましたが、今考えると、わざといつもより落ち着いた話し方をしていたようにも思えます。
電話の内容は
1.今はエジプト国内でケイタイのメッセージが遮断されている。
2.そのうちケイタイでの通話もできなくなる可能性がある。そうなった場合は、何かあったら家デンに連絡をくれるように。
3.今日これから行われるお昼の「集団礼拝」のあと、そのままデモに流れ込もうという動きがあるため、政府側が大きなモスクでの礼拝そのものを禁止しようとしているという話もある。いずれにしても今日の礼拝後にいろいろな動きがある事は間違いないと思う。
なんとなく緊張感のある話でした。
その後も夫からは何度か電話があり、明日のカイロへの帰り方についても“指示”がありました。
4.カイロに戻ってきた時は駅に迎えに行くようにするから(カイロに戻るのは明後日の朝の予定でした)、万が一電話連絡が出来なくなっていた場合、9時までは自分の迎えを待って駅で待機している事。もし何の連絡もないまま9時を過ぎた場合は、自力で地下鉄で家まで帰ってきてほしい。
この日、28日(金)のマラソンが終わった後は夜ホテルで「完走パーティ」があり、翌日の飛行機で殆どの人がカイロへ戻る予定になっていました。
が、列車でルクソール入りした私たち親子は、帰りは翌日の寝台車に乗り、カイロ到着は30日(日)朝8時半ごろの予定となっていたのです。
28日(金)に大きなデモがあってその余波が翌日まで残っていたとしても、その次の日の日曜日まで・・・ということは無いだろう、と私たちは読んでいました。しかも寝台車の到着するギザ駅は、街の中心部から少し離れたところにあります。下手に飛行機で帰って空港から家に帰るよりは、ルートとしては安全なはず。ほかの人と一緒に動けないのはちょっと心細いけれど、まあ、大丈夫だろう・・・。
そんなふうに思っていたのですが、
夕方ホテルに戻ってから、「なんだかカイロがすごいことになっているみたい」という友人の声で、みんなでFさん一家の部屋に上がり込んで『アル・ジャジーラ』のニュースを見たとき・・・想像以上の勢いで街が、人々が動いているのを知ったときには、さすがにぎょっとしました。もちろんこういう状況になった時は、テレビのニュースは“最も激しいところ”、“最も被害が大きいところ”を狙って映す事はわかっていたのですが、それでも「これってちょっとヤバくない?」という感じでした。びっくりするような人の多さ。まるでどこかよその国の「暴動」を見ているような感覚。「これ、あの橋の辺りだよね」と、ふだん目にしている場所であるだけに、みんなの動揺も隠せません。
この騒ぎが、今ここに映っているところだけのことなのか、それとも似たようなものが他の場所でも複数確認されているのか、そのへんがよくわからないのも気になります。
でもとりあえず、明日・明後日にはみんなこのテレビに映っている「カイロ」へ帰る予定なのです。
そんな中で私は、予定通り翌日の夜の寝台車でカイロへ戻るべきか、万が一の事を考えてほかの人と一緒に行動できるよう飛行機で帰った方がいいのか・・・真剣に考えながらその日は眠りについたのでした。