〜束の間のリゾートホテル・ライフ〜
ルクソールからカイロまでの「帰り方」を模索していた私たち(私&子どもたち@ルクソール,夫@カイロ)ですが、昨夜からこの日29日(土)の午前中までに、話は二転三転しました。
昨夜の段階では、「安全性・確実性を考えると予定通り3人で22:30ルクソール発の寝台車で帰るのが無難」という方向で話はまとまりかけていました。
が、その後、夫からの電話で伝えられる内容が
「エジプトを一旦離れる可能性も出てきた。とりあえず荷物はできるだけまとめておくけど、どうしても持っていきたい物があったら教えてほしい。」
「場合によっては、明日(30日)の朝ギザ駅に着いたら、その足で空港に向かうことになるかもしれない。」
「いつ、どこに出るか(日本かどこかほかの国か)という具体的な事はまだ何も決まっていないので、できるだけ早くカイロに戻れるように(つまり飛行機に空きがあるようなら今日中に飛行機で帰るように)してもらえると助かる。」
と、なんだかとても緊張感のある内容に変わってきたときはさすがにちょっと焦りました。
と、同時に、「私たち(国際交流基金関係者)は『国外退避』に向けて動き出しているようだけど、ほかの人たちは?」ということが気になりました。
私が夫からの電話で『国外退避』のことを初めて聞いた時には、まだ、私たち〜その時一緒にルクソールにいて、ホテルの部屋でカイロのデモ関連のニュースを食い入るように見ていた日本人たち〜の間では『国外退避』などという話は出ていなかったので、身近なところで身近な人が国外退避を始める・・・などと聞くと、周りの緊張感が一気に高まるような気がしたからです。
この日の午前中、私は二者択一に迫られました。
1.夫に電話で言われた通り、出来るだけ早くカイロへ帰るべく帰路を飛行機に変更する。
ただしその場合、コンピューターシステムが正常に作動していないので事前に今日の便に空席があるかを確認することが出来ないという問題があり・・・。つまりダメもとで空港まで行き、もし乗れる便があったらそれで帰る、ということになる。そして、もし午後3時までの便で帰る事が出来なかった場合、それ以降の便で帰るとカイロ着が夕方5時以降になって空港から出られなくなってしまうので(この頃からすでにカイロでは「夜間外出禁止令」が出されていました)、すぐにルクソールの町に戻ってきて今度は駅に向かい、最初の予定通り寝台車で帰ることになる。
2.予定通り、午後10:30ルクソール発、翌朝8:30カイロ(ギザ駅)着の寝台車で帰る。
でもこの場合、早く帰るべく行動しても、空港で長時間待ったり、結局飛行機には乗れず無駄に空港と街とを往復することになる可能性大。ホテルのプールでチェックアウトギリギリまで泳ぐつもりでいる子どもたちに、それは余りにもかわいそうな「予定変更」であることは間違いなく・・・。
結局、この非常時にチケットなしで空港に行って夕方前までのフライトに親子3人が乗れる可能性は極めて低いと判断し、私たちは当初の予定通り、明日の朝カイロに着く寝台車で帰ることにしました。
ホテルには「レイト・チェックアウト」をお願いし、かなりお得感のある金額を支払っただけで夕方6時まで部屋を使ってよいと言われたので(すみません、いくらだったか忘れました)、みんなが荷物をまとめて空港へ向かう中、我が家の子どもたちは水着に着替えてプールへGO!午後4時近くまでめいっぱいプールで遊び、部屋に戻って1時間近く昼寝をし、6時ギリギリにチェックアウト。
その後、ホテルのレストランでゆっくり食事をし、駅へ向かう時間の午後9:30までホテル内のおみやげ物屋さんやロビーで時間をつぶしながら待っていました。
こちらに来る前は、寝台車までの間ルクソール神殿やカルナック神殿なども見に行けるかも・・・などとも思っていたのですが、
いきなりカイロは非常事態になっているし、いつ大事な電話がかかってくるかわからないし、で、なんとなく気分も落ち着かず観光気分になどなれず結局ずっとホテルで時間をつぶした形になりました。
が、子どもたちにとっては「思いっきりプールで遊べた」ということが何よりも嬉しかったようなので、今回のこの選択は間違っていなかったのだ―――――
予定通りの時間に寝台車に乗り込んでからも、そんなことばかり考えていました。
「とにかく早くカイロに帰ること」よりも、「安全性と確実性」を取ったことは間違いではなかった・・・・と。
だから、お願いだから大きな事故やトラブルなどなく無事に予定通りの時間にカイロに着いてほしい・・・そう思っていました。
正直言うと、今回、私(と夫・・と言ってもいいのだろうか?)が取ったのは、「安全性と確実性」だけではありませんでした。
「早くカイロに戻ること」・・・このような非常時で数時間後の自分たちの動きが読めない場合、本当は最優先されるべき事だったかもしれません。いえ、きっとそうだったのです。
でも、それを最優先させるということは、私には「子どもたちを大人の都合で振り回してしまう」ということであるようにも思えました。
確かにあの時は非常時でした。
日本の所属先から「派遣されている身」である夫と、その夫の「随伴家族」である私たちですから、自分たちで勝手にいろいろ判断し、勝手な行動をとってもいい立場では決してありません。
でも、
「早くカイロに帰るためにあらゆる可能性を試す」という選択をしなかった私は、エジプトに来て初めてのプールではしゃぐ子どもたちの心から楽しそうな笑顔を見ることができました。空港まで行ったのに飛行機には乗れずまたルクソールの街まで戻ってきていたかもしれない時間に、ホテルのベッドですやすやと眠る子どもたちの幸せそうな寝顔を見ることができました。
そして子どもたちは、初めての寝台車に大はしゃぎ・・・・。
「安全性と確実性」などというのはある意味きれい事だったのかもしれない。
今でも私はそう思う事があります。
結局、子どもの笑顔がより見られる方、
子どもを大人の都合で振り回さずにすむ方を、
なんだかんだと理由をつけて私は選ぼうとしていたんじゃないか・・と。
それだけ危機管理意識が薄かった、と言われればそれまでですが。
そんな私の思いを乗せて、ルクソール発の寝台列車87号は、予定の時間を30分ほど過ぎた午後10:55頃に動き出しました。
乗り物の中でもどこででもよく寝られるのが自慢だった私ですが、この日は妙に列車の揺れが気になり1〜2時間おきに目が覚めていたような気がします。
とにかく何事もなく、予定通りに無事カイロに着いてほしい・・・・
そんなことがずっと頭の中をぐるぐるしていたようにも思います。