やっぱり『やもり通信』

海外生活一区切り。これからは日本の生活メインの内容になりそうだけど、タイトルはやっぱり『やもり通信』・・・で、いいかなっと。

<退避帰国日記:1月30日>

〜退避の準備はしたけれど〜


  昨夜22:50ごろにルクソールを出た寝台車は、この日の朝9時少し前にカイロのギザ駅に着きました。行きの列車と同じようにみごとに「10時間」の旅。
  駅が近づいたころから夫とは何度か連絡を取り合い(まだSMSは使えなかったので、すべてケイタイでの通話で)列車が着く頃には駅で私たちを待っていてくれることがわかっていたので、これはかなり心強かったです。昨日・一昨日と私たちは、見慣れた街並みの中に“群衆”や“戦車”という見慣れないものが映っているのを「これはいったい何?」と思いながらルクソールのホテルのテレビで見ていたのです。そして、今、そのカイロに足を踏み入れようとしているのですから。
  昨日の夕方からの「外出禁止令」は朝8時までとなっていたので、それが解けた8時になってから夫は家を出て駅へ向かってくれたようでした。

  ・連絡を取り合っている間、ケイタイの通話が完全に遮断されることはなかった(つながりにくくなった事はありましたが)
  ・夫が駅まで来てくれている(つまり家からギザ駅までの間の道には今のところ大きな問題がない)
  
  この2点は私たちにとって大きかったです。


  さて、駅のホームで夫と合流。
  ここから家への帰り方は2つ。

  1.すでに動いているであろう地下鉄(駅は列車の駅と直結。我が家も地下鉄の最寄り駅からは5分ほど)

  2.タクシー


  夫はここまで家の近くからタクシーで来たそうですが、道は封鎖されている所もなく、勿論この時間なので渋滞などもなく、また料金も10ポンド(170円ほど)で特にぼられることもなかったということだったので私たちはタクシーで帰ることにしました。ちなみに、今回の様な非常事態(と言えるような時)で、どうしてもタクシーを使いたい/それ以外に交通手段がない場合は正規料金の10倍を請求されても当たり前と考えるべき、と夫を始めほかにも何人かに言われていました。そこで「高すぎる」などといつものような感覚で怒ってみたり値切ってみてもなんの得にもならないと・・・。危機管理意識の薄い(かもしれない)私には、ありがたいアドバイスだったと思っています。


  駅を出るとタクシーはなんなくつまかりました。というか、駅の前に普通のメータータクシーが止まっていました。家の住所を言って乗り込むと、運転手はごく普通にメーターのボタンを押してタクシーを走らせました。あまりにも「いつもと同じ」な感じで、ちょっと拍子抜けするくらいでした。こんな非常事態(と、たぶん言えるような時)でも、普通にメーターで走らせてくれる(=最初からぼる気など全くない)運転手さんもいるんですね・・・。この後タクシーに乗る機会もないまま国外に出る事になってしまったので、この運転手さんのような人が「例外」なのか、それとも意外にみんなこんな感じなのかは(・・・たぶんそうではないような気はするけど)結局わからずじまいでしたが。

 
  さて、タクシーは家に向かいます。それに乗っている私たちは街の様子を見ながら家に向かう事が出来ます。地下鉄かタクシーかを決める時、夫は言いました。
 
 「タクシーでも大丈夫だと思うよ。途中の道で戦車とか燃えちゃってる車とかも見えるし」

 
 確かにありました。燃やされちゃってる警察車両。
 そしてカイロ大学の前を通った時には、そこに数台の戦車。さすがに物々しい感じがしました。   
 でも、たぶん初めて本物の戦車を目にしたのであろう子どもたちは、「あ、ナウシカに出てきたやつ?」

 そういえば、数日前に家で『風の谷のナウシカ』のDVDを見ていたのでした。


 
 家に着いたら、ルクソールからの荷物を整理しつつ、今度はもっと大きなスーツケースに退避帰国用の荷物を入れる作業。

 ・パスポート、通帳や印鑑、有り金全部
 ・母子手帳や病院の診察券など普段の一時帰国で持っていく物
 ・洗面道具と服(2〜3日分)、パジャマ。
 ・本などちょっとした時間つぶしグッズ
 ・日記帳
 ・食料と水

 最低限必要なものってこんなもんでしたっけ?

 とにかく、このあともし連絡が来たらすぐにでも出発か?という雰囲気の中の荷造りだったので、その時実際にスーツケースに詰めた物が何だったのか、今となってははっきりとは思いだせない感じです。


  結局、昼前には「今日中の出発は無くなったらしい。」との連絡が入り、
それなら・・・ということで、まずシャワーを浴びてその時着ていた服などを洗濯。

  出発はたぶん明日か明後日。じゃ、それまでにしておくことは・・・
   ・もう一度荷物のチェック
   ・冷蔵庫の中などの食料の片づけ
   ・部屋の掃除、少々



  荷造りが一段落してから、カイロ在住の友達(エジプトの人と結婚してカイロに住んでいるママ友)のところへ電話をしました。この時点でもインターネットとケイタイのSMSは遮断されていましたが、ケイタイと固定電話の通話はできました。

  ナイル川の中洲の比較的落ち着いたエリアに住む彼女にここ数日の様子を聞きながら、ルクソールから無事戻ってきたこと、私たちは一度カイロを離れる事になったことなどを話していたときです。
  突然、受話器の向こうから「ぎゅおん!!」というものすごい音が聞こえ、相槌を打っていた彼女の声が「え?え?今の聞こえた??」という驚きの声に変わりました。
  受話器を通して聞こえたその音は、今度はたった今「うん、聞こえた。何?今の音!」と答えた私の反対側の耳(受話器を当てていない耳)に「ぐごぉぉぉ〜〜!」という音となって入って来ました。

  慌てて窓の外を見ると、ナマ戦闘機。
  タクシーで10〜15分離れたところにある友人宅の上空から、コイツは一瞬のうちに我が家の上空まで飛んできたのかぁ・・・と思うと妙に感動しました。

 「戦闘機は速い」という当たり前(?)のことを、はっきりと実感できた瞬間でした。

 それにしてもあの音はすごかった。
 子どもたちも、戦車に続く“本物の”戦闘機を見るべく夫と一緒にベランダに出ていましたが、音はすれども姿は見えず…状態で、なかなかきちんとそれをとらえることが出来ないようでした。


  
  その日は午後4時から「外出禁止令」が出ていたので、家にある物/冷蔵庫に残っている物などで夕飯をすませることに。さらに、明日、空港に向かう事になった場合の「非常食」の用意もしなければなりませんでした。


  一足先に海外へ出た人たちからの情報や、エジプトでいろいろお世話になっている『カイロ・ダウンタウンホテル』http://cairodowntownhotel.com/ のアサエさんによると、

  「とにかく今の空港は大変なことになっている」

  とのことでした。海外へ一時避難しようという人が押し寄せているということくらいは容易に想像できますが、外出禁止令が出ている時間帯は飛行機は飛ばず、また空港から外へ出る事も出来ないため、人はたまっていく一方。予定されていたフライトも平気でキャンセルされ、チケットを持っている人でさえその飛行機に乗れず空港に2日間も寝泊りしながらあてもなくフライトを待っている・・・というではないですか。

  「小さなお子さんもいらっしゃることですし、もし空港に行かれることになった場合は、十分な水と食料、それからトイレットペーパーやビニールシートなどをお持ちになる事をお勧めします。」とアサエさん。 

   座る場所もなく、水さえ買えないような状況になっている空港。
   大きな荷物を持った人たちで、押すな押すなの大騒ぎになっている空港。

   気が重かったですが、まあ、仕方がない。
   それに私たちが行く頃もまだそんな最悪の状態が続いているとも限らないし・・と思いながら、それでもトイレットペーパーやウェットティッシュ、新聞紙、大きめのビニール袋、古めのバスタオルなどをカバンに詰めました。

   
   台所に残っていた米は6合ほどでした。中途半端に残っても仕方がないと6合全部を炊き、夕飯後に残ったご飯でおにぎりを作りました。(あぁこのおにぎりが後で悲しい結末に・・・;)
  
   
   長かった一日が終わろうとしています。
ルクソールから無事戻ってきたら、今度は国外退避の準備。

 明日か明後日には空港に。
 行き先は日本か近隣の国か。


  金曜日(27日)の、街のあちこちから火の手が上がっている様子をテレビのニュースでしか見ていない私は、なんだか状況がよくわからないまま非日常的な流れに押されていくのを感じましたが、自分の身に危険が迫っているという感覚にはなっていませんでした。
  それは、その日の夜が予想していた以上に静かだったからだと思います。時々爆竹のような音が聞こえたり、アパートのすぐ近くのタハリール通り(今回の“舞台”となった「タハリール広場」につながる道です)を明らかに装甲車のようなものが通っている音が聞こえたりしましたが、それでも子どもも私もあっという間に熟睡モード。単に疲れていただけかもしれませんが。


  でも、私たちがこんな風に安心して眠ることが出来たのは100%、交代で夜を徹して見張りを続けてくれていた「自警団」のみなさんのおかげだったと今でも思っています。27日のデモの後、街から姿を消してしまった警察官の代わりに、「自分たちのことは自分たちで守る」という思いで組織されたと思われる「自警団」。私たちのアパートも例外ではありませんでした。最初は自分も同じアパートの住民として自警団に加わるべきじゃないか、と一度は我が家の「竹刀」を手にした夫でしたが・・・。結局いろいろなことを考え、外国人である私たちは彼らに差し入れをするにとどめることにしたのでした。

  では、この「自警団」のみなさんのことは、<退避帰国日記:1月31日>でもう少し詳しく書きたいと思います。



<<後日談>>
  2月17日日本での退避帰国生活もそろそろ2週間・・・というころ、前述の「カイロダウンタウンホテル」のアサエさんよりTwitterのダイレクトメッセージが届きました。
   『こんにちは!今更ですが、ルクソールからの列車、村上さん(←私です。パスポートを使うような場面ではきちんと「村上姓」を名乗ってるので^^)が乗ったのが最後の運行だったんですって!ホントよかった〜。(涙) 今は日本でゆっくりされてますか?』

・・・・・本当に一瞬心臓が止まりそうになりました。あの電車に乗れていなかったら、私たちは・・・・・ああ、今考えても震えが来そう。