やっぱり『やもり通信』

海外生活一区切り。これからは日本の生活メインの内容になりそうだけど、タイトルはやっぱり『やもり通信』・・・で、いいかなっと。

奥尻島とハーフマラソン

 

 《新着 奥尻情報》というタイトルで、北海道に住む母からメールが届いたのが8月の末。

 《この夏休み中に同島を訪れたO先生(中学時代の音楽の先生)によると、奥中(奥尻中学校) 全校生徒26人!で、奥小(奥尻小学校)廃校!》

 なんとも衝撃的なニュースでした。


 我が母校が全校生徒26人って・・・・・

 まるでカイロ日本人学校、 いやカイロより少ない?? もちろんカイロ日本人学校は小学部と中学部合わせての人数なので単純な比較はできませんが。


 私が奥中に通っていた1980〜1982年当時は全校生徒は150人ほどだったと記憶しています。
 各学年2クラスずつあり、どのクラスもひとクラス25人ほどで先生にとってはゆとりの学級経営(?) まぁ、当時は全国的に校内暴力全盛期とも言われた時代でしたから、離島とはいえ、それなりのご苦労はあったかとは思いますが・・・。

 中学校の丸々3年間をこの奥尻島で過ごした私にとっては、当たり前といえば当たり前ですが【中学時代=奥尻】

 ほとんどが島内の小学校からの「持ち上がり」的な感覚〜ほとんど小学校の時からの顔見知り〜で中学校に進む、という状況の中、ムカエ(奥尻の人は北海道本島のことをそう呼んでいました)の小学校から転校してきたような形での入学となった私は、最初の頃こそ、周りの子たちからちょっと“よそ者”的な目で見られたりもしましたが、3年間の奥尻生活を終えてもとの恵庭市に戻る頃には、もうすっかり島の子の話し方になっていたそうです。(いわゆる“浜ことば”的な「奥尻弁」がかなり染み付いていたらしく、母が言うには明らかに以前とは違うアクセントで話すようになっていたとか。)

 
 北海道の「しっぽ」の西側にある奥尻島。周囲84キロ、面積142.98k㎡(奥尻町OKUSHIRI Town http://bit.ly/1yjI3QEより)
 ちなみに恵庭市は千歳のちょっと上あたり。


 そう。
 我が家の奥尻生活は、きっかり3年間でした。

 奥尻中学を卒業した私は、家族とともに生まれ故郷恵庭市に戻り、自宅から通える公立高校に進み、札幌市内の大学に進み・・・

 その頃には奥尻の高校を卒業後、札幌方面で就職した友人たちとちょくちょく会うこともありましたが、私が奥尻に足を運ぶことはそう多くはありませんでした。

 
 確か、【成人式】を迎えた年の夏に帰ったような気もするのですが、でもそれもなんだか記憶が曖昧。

 島外に出ている人たちが帰省するのは圧倒的に「夏」が多い奥尻では、毎年夏休みのお盆の時期に【成人式】を行っているため、その時期に合わせて行けば懐かしい顔が勢揃い。そんな事情を知っていたため、その時期に合わせて久々のお里帰りをした・・・よなぁ、確か。

 でも、その時、誰に会ってどこで何を食べた・・・とか、不思議なくらい記憶が飛んでいて。

 
 だけど今でもはっきり覚えているのは、一番最近のお里帰りが1998年の夏だった、ということ。


 この年の8月9日に私は島の南端青苗港から中心部の奥尻港までの約21キロを走ったりしてたんです。

 
 《'98 奥尻復興ハーフマラソン》

 



 1993年の北海道南西沖地震で、南部の青苗地区を中心に甚大な被害を被った奥尻島。その5年後に突如(という印象でした)開催された復興マラソン大会。

 あの日、津波に襲われとんでもない状況になっている島の様子をテレビの画面を通して見ているしかなかった自分。

 その後、いわゆる“復興”がどのように進んでいるのかもほとんどわからないまま日本を離れていた私は、帰国も近づいてきているインドネシアでこの復興マラソン大会開催を知りました。

 8月には間違いなく帰国しているはずだからと実家の母に申し込みを頼み(インターネットでポンと申し込み、なんてことはまだ全く普及していない時代でしたゆえ・・・)


 案の定、帰国してからもなんだかんだと忙しくろくに走る練習などできない状態でしたが、ほんのちょっと前まで現役体育教師だった父の「きちんとしたトレーニングをしなくてもなんとか走れるのはハーフまでだ」という言葉を超プラスに(=都合のいいように)受け止め、
「つまりハーフくらいまでならぶっつけ本番でも何とか走れるってわけね。」と、懐かしの島へ乗り込んでいった当時31歳の私は、やはり父の言葉通り、なんとか21キロちょっとの距離を完走することができたのでした。


 記録は2時間18分17秒

 なんとこの大会の参加者名とその記録が掲載されている『北海道新聞』が手元にあったりするわけで。
 
 この時のハーフマラソンのパンフレットと16年前の新聞が、エジプト退避時の《世紀の断捨離》を生き残ったのかと思うと、ホント感慨深いです。
 

 この人生初のハーフマラソン

 自分としては「久々のお里帰り」という思いと
 震災後やっと、初めてそこを訪れることができた、という嬉しさとでものすごい高揚感に包まれていたことははっきりと覚えているのですが・・・


 果たして本当にちゃんと走れていたのか?
 
 途中歩いたりしないで、全部走ってたのかー?

 というあたりはほとんど記憶にありません。


 ただ、


 沿道の応援が・・・

 
 「マラソン」という場面では必ず沿道から飛んでくる
 「がんばれ〜!」という声。

 もちろんそれも聞こえました。

 でも、それと同じくらいに

 「ありがとう!!」
 

 
 えぇ?
 
 「ありがとう」を言いたいのはこっちだよ。

 こんな機会を作ってもらって、

 やっと久方ぶりの里帰りが実現して、

 しかも、懐かしい場所を目にしながら(・・・実際には復興後の奥尻の風景は以前とは様変わりしていましたが)気持よく(?)走らせてもらっちゃって。

 お礼を言いたいのはこっちの方です。


 だから、

 お願い、ばっちゃん。

 そんなふうに手を合わせて拝んだりしないでよ。

 
 あぁ・・・こっちのばっちゃんは涙ぐんでるよ。


 頼むから、そんな感極まった顔で私たちを見つめないで・・・。

 そこの、目に涙浮かべながら「ありがとうございます。ありがとうございます。」を繰り返す割烹着姿のばっちゃん・・・。

 
 お願い、やめて〜〜・・・



 走れなくなっちゃうよー。



 そんな思いで、時には本当に泣きそうになりながら走ったことは、しっかりと記憶に残っています。

 
 
 これが私の中の唯一の「ハーフを走った記憶」なのですが、それに先日、ついに


 【Second ハーフマラソン】の記憶が加えられました。



 場所はもちろんここ、ブダペスト
 



今回はさすがに多少は事前に走っており、

 でも、前回から16歳分「年」を重ねており、



さて、ぶっつけ本番だったけど30代になったばかりだった前回と

多少のトレーニングはしてるけど40代後半になっちゃってる今回とでは


どちらがどのくらい速く走れたでしょーーーーーか??



 大変興味深いところですが、ずいぶんと長くなってきたので今日のところはこれにて終了。

 次回へ続く^^ 



※冒頭の《奥尻小学校廃校》について補足
 奥尻地区の役場近くにあった奥尻小学校は、宮津小学校(2014年3月(平成25年度)閉校)、稲穂小学校(2003年3月(平成14年度)閉校後、宮津小学校と合併している) が統合された形で、宮津地区に新設された可愛らしい校舎で「奥尻小学校」の名で、単式学級の教員含めて70人規模の学校として再スタートしているそうです。
参考:『ふるさと奥尻通信』http://bit.ly/1qSp1Ne 
    『広報おくしり』http://bit.ly/1mndT9Y
『奥尻町 OKUSHIRI Town』http://www.town.okushiri.lg.jp/


 奥尻といえば・・・【鍋釣岩】(なべつるいわ) 
 あぁ・・・やっぱりカッコイイ^^